神田橋語録 - 波多腰心療クリニック

http://hatakoshi-mhc.jp/kandabasi_goroku.pdf

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最近は診断されたばかりということもあってか、双極性障害(以前は躁鬱病と呼ばれていたもの)について考える日々です。

主に気になっているのは、私は何者なのか…というか、今この時点で私としても周りとしても信頼できる人格なのか?という疑問です。

私は自閉症スペクトラムでして(つい最近までアスペルガーと呼ばれていた障害ですね)、おそらく情緒面と客観性(社会的にどういう行動がどういう風に見られるか、という意味の客観性)の発達がかなり遅かったみたいです。それもあって、30歳を超えてからようやく変人と言われる枠を少しだけ理解できるようになりました。なったと思っています。そういう人間です。

これが前提にありますんで、幼い考えなのかもしれないと思いつつ、ばーちゃんになった私が懐かしく思えたらいいなあという気持ちでここに今の悩みを書いておきます。

 

前述の人格に関する悩みとは、主に自分から自分への信頼と、周りから自分への信頼の両方の話です。人格の定義はかなりぼんやりと考えてほしいです。国語辞典レベルの…。今の私がそれくらいしか考えていないのです。考えられないというか…

例えば、私が社交ダンスしてみたいと誰かに言うとします。双極性障害という認識が私にも相手にもなければ、私はただ社交的な人です。(社交ダンスは名前よりストイックであることは調べてなんとなく理解しています)

しかし双極性障害の場合、これは躁転の兆候に見えそうというか、おそらく口に出せば警戒させるし思考した時点で私も自分の考えを良いものとはすぐ思えないのです。

これを信頼がおけない、と私は脳内で表現しています。なんと不謹慎な表現なんだと思います。

双極性障害が一生ものであるがゆえに私の考えは基本的に信頼できないのではと悩んでいました。

しかし、人間の人生はそんなに楽でない分、そんなに大変でもないのではないかとちょっと、ずっと思っていたのです。

だからこの問題に折り合いをつけられそうなうまい考え方を探す旅に出ていました。

今のところの答えとして、主治医の言葉まずひとつ。

「(私)さんが躁になっている、(私)さんが鬱になっている、それだけであり人格は同じである」

お腹が痛いとき、お腹が空いているとき、みんな少しだけ人格変わってるよねという考え方ですよね。これは納得。だって私、例えば見知らぬ人が発狂しながらトイレに走ってきて鬼気迫る表情で順番変わってくれって言われたら絶対狂人とは思いません。ああ…頑張ったねと思います。

そして次にもうひとつ。

それが冒頭にリンクした神田橋條治さんの考え方です。

上記の私が考えたおなか弱い族の話とほとんど同じなんですが、それを精神的な問題でも私たちが理解できるように書いてあるのです。

優しいやつが多いなんて褒めてもらっているのもちょっと、いやかなり嬉しい。

 

 

 

とりあえずこの問題への思考というか、勉強はここまでにしようと思います。

なんだか考えなくても人格の外枠って決まってくるみたいで、誰に聞いても私は変に興奮してやらかすし、変に落ちこんでまたやらかして、それは予測可能で以前から私の行動を知っていれば理解できる範囲内みたいなんですよね。まあサンプルは少ないのですが…

だから人格っていうのは双極性障害を上回って存在しているんじゃないかと思います。

今のところ。